2009年11月15日日曜日

つみとばつ

中学生と、高校生の、間くらいの時期だ。
自分は悪いことをしてると分かってて、
対してそれに気付かずにママが優しいときは、私の心臓はとっても苦しくなるようになったのだった。

なぜなら
その時期になって、私はちょっと頭の中の世界が広がって、まえより思考の面積が拡大したから、
そして、「ママは私を叱るけど、いつだって根っこは私の味方だ」って、分かっちゃったから、


だから悪いことをしたとき そして 特にそれがバレずに、ママがにこにこしてるとき、
とてもとても痛かった 自分でいくら自分を叱っても 痛くて
でもママに叱られにいくタイミングをつかめず ビビってて でも 「バレなきゃいいんだ」って開きなおれる程もう頭は狭くなくなっちゃった。



それからまた、

叱られても自分の罪が消えるわけでもないと分かった。

叱責という「罰」では、「罪」が消えるはずもないのに、「罪の意識」が消せるなら

罰はなんて優しいんだと思って

罰を罪意識のイレーサーに利用するなんて

私は最低だと思った。

その後やってくる日常のママの笑顔にまっすぐ答えられるような人になるためには、
私はママの罰に加え、自分で自分を罰し、律し、自分で納得できる程のレヴェルに到達しなければ、痛くて痛くてたまらないままだと気がついた。



でもけっきょく私は自分を罰することに甘えた。
律するのって断然難しいから、
できない自分が苦しいから。



そんなようなことを、思い出した。


罪は罪だし
罰は罰にしかならない。

罪を罰で返済できるって いつ決まったの?
罪意識のイレーサーに利用してるなら、罰は優しい。







私は君を信じるから

君が私と一緒で簡単に自分を許せるようなやつじゃないって信じてるから


私の罰は君の罪をどうにもできないから


私の罰で君の罪意識をつつきたくないから


君が君自身によって罪意識に向き合えると信じたいから




君の処分は君に任せるの。


任せた。








私はとことん生意気だな。