2007年12月1日土曜日


 

昔の日記
2007年10月24日00:24 ************************************************************************************ 
いつも思ってることだけどいっこのところに力をかけるのはとても危険なことで容易に想像できるけどいっこのところにぎゅうと力をかけるとボキッとなるわけですなんでもね。だからよくないんだって思ってるけど大事なものに力点置いてそれをとってもとっても大事にすることが悪いことだとしたら人は何も本気で愛せないじゃないかいどうなんだい難題。愛とかゆったね日本語で愛とゆうとドウモなんだか生臭いしフザケてるしまっすぐじゃないしニュアンスがつたわんねぇなそうじゃないんだよなもっとなんかキラキラの原料とか綿菓子とかチョコレートとか宝物のピカピカのビー玉とかとかそんなものの意味で愛なんだけどドウかしら伝わるかしらドウかしら菓子等。 

大事で好きでピカピカで宝物でそれに対して盲目になることが危険なのはとてもよく知ってる。それはたぶん自分じゃないものにおおくを求めすぎているからだ人は最終的に自分自身を必要としなくっちゃあ精神的にひとりで立っていらんないしもちろんひとりで立っている必要なんてなくてもちろん支え合って立つのだけれどきっとそれはバランスが大事でだれかひとりに寄っかかりすぎるとその誰かは疲れきってしまうんです支え合ってたとしても重みはのしかかってくるわけですから。 

愛してるとか大事にしたいとか大好きとか何でもしてあげたいとか助けてるように見えて・支えているように見えて・持ち上げてるように見えて・それはけっきょく相手への依存だったりするからやっかいなのですきっとほらそうすることによってあたしたちは自分の居場所や存在意義やここに居ていいんだよきみはここに居て意味があるんだよって空気をとても求めていてそういった意味で相手への依存だとゆえると思うのです。じっさいきっと必死になったところでいらなくなったら人はポイってできる強さと残酷さを持っているものそれはある意味自己防衛でだって人はいつか死んじゃうし永遠にその状態を保てるものなんてないしそういった全て無常のものたちから悲しみを受けないようににんげんは強さと残酷さをちゃんと持ってて ええ だからあたしたち自身いつだってポイされる危険性・・・可能性・・・を持ってるわけですからだから依存しすぎたらあぶないのです。いつでも相手はポイできることをわすれちゃだめなんです。相手はポイするんじゃないのだけれどポイできる可能性を持ってるんです。もちろん喜んでポイする人たちなどごくわずかでしょうがでもポイしなきゃ自分が摩耗されて麻痺して木っ端みじんになりそうなときだってあるんですその際かれあるいはかのじょの選択肢にはポイがあるわけです。ポイは簡単ですはっきりゆってポイ以外の選択肢は困難なものばかりですとてもエネルギーを要しますMPが高くないと使用できませんからたいていの人間はやむをえずポイを選ぶのです選ぶまでもなくいつしかそうしてしまうかもしれません・本人が自分がソレを選択したことに気づかない間にさえ。も。 

ですから他人に求めすぎるのは危険なのです相手に思わぬ行動をとらせてしまいます誰一人望んでやしないのになぜかとてもとても悪い方向にどろりどろりとながれてゆくときだってあるんですそれはぬるぬるとした流体でねっとりと触れることができても決してつかみとれないのです。そのうちにあなたはその粘性のどろりどろりが堪え難いほどに気持ち悪くなって手を引っ込めてしまうでしょう。いちど引っ込めてしまったらもうとたんにサラサラと消失してしまうのです。さようなら。 

サテしかし自分ひとりで自分自身に居場所を与えて自分に愛を与えるなど誰が本気でできましょう。ひとりじゃできないから誰かに求め・誰かにあたえるとゆうのに。サテそこですべてはバランスなのです。ほうらはじめにゆったでしょうどれかいっこにぎゅうと力をかけてはボキッなのですほうらはじめにゆったでしょう。ほうら。 

ほうら じぶんの時間も大事あれらとの時間も大事それらとの時間も 
平等に愛するなんてそんな難しいことはいりませんどれもこれもまぁてきとうに大事にしときゃきっとくるくるとハッピーはまわりだします綿菓子の機械のようにゆるゆるふわふわとそして割箸のまわりにまとわりつけばもこもことしたハッピーに。
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最近気づいたけどひとりになってしまう時こそひとりが平気じゃなくて誰かといれる可能性がおっきい時はけっこうひとりが平気なのな。