2007年12月15日土曜日

内部で起こるネガとボジの対話

やあ、ぼくの名前はポジ。
何の前触れもなくまたネガがぼくの目の前にやってきて話しだした。ネガはいつもぼくの忘れがちで意識してなきゃ見えない世界の側面を見せてくれる、というか、見せつけてくる。ぼくは、みなきゃいけない、見るべきだと思って、いつも、ネガの話しは注意して聴いていたけど、最近はネガといったらぼくを苦しめることばかりなんだ。

まぁそのネガがまたやってきた。

「ぽじ、オマエは寂しくなるといつも誰か誰かとゆって誰かを求めるけど、その『誰か』ってやつは実在するのかい?

ねぇ、ネガ、ばかゆわないで。ぼくは皆がとても好きでとても大事なんだよ。だから、そのだれが「誰か」になったとして誰だとしてもぼくは幸いなんだよ

「またそんなことをゆうんだ、ぽじは。頭が悪いな。ぽじ、オマエは皆が好きとゆうが、ミンナってだれだ?ミンナが好きって、みんな、同じだけってことで、オマエは特に誰も特別じゃないんだ。だから好きとか大事なんて戯言さ。ホントはオマエ、みんな、どうでもいいんだ」

なんてことゆうの

「だってそうだろ。オマエは頭が悪いから分からないかもしれないけれど、オマエがみんなを『みんな』ってくくった時点でみんなが『誰か』になることはあり得ないんだ。オマエは『誰か』を求めてるくせに積極的に『誰か』を作らない方向に人間たちをとらえてるんだ。
そんなことだからいつまでたっても『誰も』ぽじのところに安住しないのさ。みんな同じラインにいるから誰もぽじの寂しさをまぎらわせないのさ

では、ネガは、ポジが誰かを特別扱いして、その特定の誰かを求めれば良いと言うの?

「もっと人間てものは誰かだけとくべつ好きだったり誰かはとりわけ受け入れられなかったりそんな個人個人に対する愛情のアップダウンの激しい生き物なのさ。ぽじはそうゆう人間のこずるくて、ドロドロした面を全部無視して、博愛によってミンナ幸せになれると思ってる。そんなんじゃ結局誰も幸せなんかならないよ。誰も寂しさから解放されない。もっとドロドロした部分をみとめて、そこから出発しなくちゃダメなんだ」

うん、けれどボクには分からないよ。ドロドロした所有欲とかそうゆうたぐいの愛情は、僕らを幸せになんてしてくれるの?ホントに寂しさから解放してくれるの?どうしてみんながみんなお互いを好き合ってるだけじゃ世間は寂しいままなの?そこは愛情で溢れてるはずじゃないの?

「本質を無視して理想だけ構築しても無意味さ、ぽじ。理想で、つまり今の場合は博愛で、世界を埋めたってごまかしなんだ。本質を見て、本質を知って、そこから始めなきゃ。ギリギリの切羽詰まったドロドロの愛情をぶつかり合わせなきゃ、ボクたちは寂しいままさ。それに、ぽじ、愛情ってのは絶対量じゃない相対的なんだぜ。いくら皆に愛を100配っても皆に100ならそれはみんなにゼロとおんなじさ



突然ネガは消えてしまった。
いつもそうだ。言うだけ言って消えてしまう。
ボクにはやっぱり分からないのだった。ドロドロの愛情ってやつが。むかしどこかに捨て置いて、そのときボクはポジになったのかもしれない。そしてその捨てた部分がネガになったのかな。
とにかく
ぼくはドロドロの愛情が分からなくて
分からないままで
だから
ぼくは今でもちょっとどこか寂しいままで、それなのに、皆を好きだと言い、大事だと言い、皆がいて幸せだと言って、そうしてにこにこ、笑うんだ。平らな愛情たっぷりに。